お三の宮日枝神社

おさんのみや ひえじんじゃ

横浜市南区山王町5-32
tel:045 - 261 - 6902
fax:045 - 261 - 6959
mail:info@osannomiya-hie.or.jp

吉田新田について

開墾図

入海図

現在の横浜市の中心部、中区と南区に亘り、伊勢佐木町や大通り公園などを含む関外地域で、大岡川と中村川、それからJR京浜東北・根岸線とお三の宮所在地までを囲んだ広い範囲です。

この辺りは江戸初期までは釣鐘の形をした浅い入海でしたが、今からおよそ三百五十年前に、江戸幕府並びに諸大名の御用達として広く石材木材商を営んでいた吉田勘兵衛良信という商人が、幕府から許可を得ての入海を埋立てて新田を築きました。
当初は釣鐘新田(野毛新田)とも呼ばれていました。

この大工事は、明暦二年七月十七日に鍬入れをしましたが、翌年の五月十日より十三日に亘る集中豪雨の為に潮除堤が流されて失敗に終わります。
しかし、万治二年二月十一日に再度試みて、寛文七年、十一年余りの歳月と八千三十八両の巨費により、難工事を完成させ、市内最古で最大規模(およそ三十五万坪)を誇る新田開発を成し遂げることが出来たのです。

日枝神社の創建

勘兵衛は、寛文五年新田の要処である大岡川と中村川の分岐点に大堰と呼ばれた最も重要な取水口があった釣鐘の頂点に宮地を定め、完成後の寛文十三年(一六七三)九月、新田の鎮守として、新田住民の安寧幸福や五穀豊穣を祈り、江戸の山王社(今の旧官幣大社日枝神社)より勧請し、に、山王社と併せて稲荷社を創建したのであります。
この御由緒により『横浜開拓の守護神』として、氏子をはじめ横浜の普く人々に御崇敬を戴いているのです。

創建当時、吉田勘兵衛により奉納された獅子狗二体現存する非常に貴重な当時のもので、現在は、日枝神社ご社殿の御扉の中、外陣に静かに置かれています。
尚、同時に奉納された白狐二体は、大正12 年の関東大震災の際に焼失しています。

お三の人柱伝説

新田開発が難工事だったことから、氏子中はもとより横浜に広く語り伝わる「おさんの人柱伝説」が生まれ、「日枝神社」が「お三の宮」と呼ばれるに至る、ひとつの要因となっています。
諸説ありますが、そのひとつを紹介します。

 吉田新田埋立の最初の工事(明暦二年)は、大雨による川の氾濫により失敗に終わりました。
そこで勘兵衛は、再度の埋立工事の成功を成就するために居住地の氏神赤坂の山王社(後の旧官幣大社日枝神社)に詣で、更に日頃念ずる日蓮宗総本山身延山久遠寺に参ったところ、訳あって夫の仇を討ちたいと諸国を流浪していた「お三」という女性にめぐりあいました。勘兵衛は、私の家に暫く身を寄せて時期を待つよう促し、家族の一員として迎えるに至りました。こうした機縁で、お三は勘兵衛家に仕える事となりました。

 再度の埋立開始が決まった万治二年のある日、お三は勘兵衛に向かい、「今度の事業は容易ではないと思います。神仏を深く帰依なさる旦那様には、必ずやご加護があることと信じますが、古来人柱をたてるとその験があると聞き及んでいます。」と日頃のご恩に報いるのはこの時と、自ら人柱になりたいと申し出ました。勘兵衛はお三の殊勝な心がけを喜び感謝しながらも、人命の尊さを説いて押し止めたがお三は聞き入れなかったといいます。

 同年九月十三日、波打ち際(現神社裏)より白衣に身をつつんだお三は、合掌して天を仰ぎ大海に身を投じ、埋立の大事業完遂の人柱となったとのことです。

 このように難航を続けた工事も、お三の人柱によって成し遂げることが出来たのであります。

おさんの伝説は、吉田勘兵衛が両社のご創建にあたり、大乗経を其々の下に一部埋納して地鎮祭を行ったことから、この大乗経埋納が民間訛伝しておさんの人柱となり、お三の霊をまつったという異説も未だに残っています。
ちなみに、明治・大正・昭和初期に地元伊勢佐木町の芝居小屋で多く演じられた「おさん」をモデルにした芝居によって多種多様な異説が生まれました。
これは、地元の住民はもとより、東京や外国人への客寄せのため、また、盛大なお三の宮の大祭になると、氏子住民がまつりに没頭し、客が減ることから、色々と脚色されたのではないかという言い伝えもございます。

現在の吉田新田

横浜の礎となった吉田新田は、現在、四十数ヶ町で構成されており、高速道路や地下鉄が走り、その大半を住宅や繁華街で占められ、かつてここが海であったことを想像するものはありませんが、地図や上空写真を見ると、釣鐘形の埋立の跡がはっきりと見て取れます。


境内見学について