日枝神社について

ご祭神・ご由緒

鎮座地:横浜市南区山王町五丁目三十二番地

社 名:日枝神社(ひえじんじゃ)

日枝神社は、古くは山王社・山王大権現・山王宮と称せられましたが、今では「お三の宮」「お三さま」と広く親しまれ、崇め称えられています。
これは、山王宮→山の宮→おさんの宮と転訛したこと、更には《お三の人柱伝説》を付会して「お三の宮」と書かれ呼ばれるに至りました。

ご祭神・ご神徳

主祭神:大山咋命(おおやまくひのみこと)

相殿神:宇迦之御魂命(うがのみたまのみこと)

大山咋命は、近江国(今の滋賀県) の日枝山(比叡山) にお鎮まりになったのが最初で、須佐之男神の御孫、大年神の御子神にして別にその御名を山末之大主神と称え申し上げます。
「咋」は「主」という意味で、大山の主であると共に山・水を司り、武道の祖神、酒造の守護神と崇められ、大地を支配し、万物の成長発展・産業万般の生成化育を守護し給う御神威は広大無辺です。
殊に、「丹塗の鳴鏑」(= 放つと音を立てて飛ぶ赤い鏑矢) に化身する神霊とも伝えられ、開運・子授けや縁結びの御神徳があります。
また、神様のお使いが神猿(まさる)であることから「魔が去る」・「何事にも勝る」に通じて厄除け・勝負ごとの御利益を戴いております。
加えて「おさん」の伝説から、お産(安産)の神・子宝の神・子供の成長の神としても広く知られています。
宇迦之御魂命は、五穀豊穣の神・商売繁昌の守り神として、稲荷神社として祀られました。(昭和52年日枝神社に合わせ祀られました)

ご由緒

現在の横浜市の中心部、中区と南区に亘る大岡川と中村川、それからJR京浜東北・根岸線からお三の宮所在地まで(関外地区)の広い範囲は、釣鐘の形をした入海でしたが、今からおよそ350年前に、江戸幕府並びに諸大名の御用達として広く石材木材商を営んでいた吉田勘兵衛良信という商人が、この入海を埋立て新田を築きました。
(=吉田新田)
この大工事は、明暦2年7月17日に鍬入れをしましたが、翌年の5月10日より13日に亘る集中豪雨の為に失敗に終わります。しかし、万治2年2月11日に再度試みて、寛文7年、11年余りの歳月と8038両の巨費により、市内最古で最大規模(およそ35万坪)を誇る新田開発を成し遂げることが出来たのです。
そこで勘兵衛は、新田の要処である大岡川と中村川の分岐点に、寛文13年(1673)9月、新田の鎮守として、新田住民の安寧幸福や五穀豊穣を祈り、
江戸の山王社(今の旧官幣大社日枝神社) より勧請し、山王社と併せて稲荷社を創建したのであります。
この御由緒により『横浜開拓の守護神』として、氏子をはじめ横浜の普く人々に御崇敬を戴いているのです。

吉田新田について

現在の横浜市の中心部、中区と南区に亘り、伊勢佐木町や大通り公園などを含む関外地域で、大岡川と中村川、それからJR京浜東北・根岸線とお三の宮所在地までを囲んだ広い範囲です。

この辺りは江戸初期までは釣鐘の形をした浅い入海でしたが、今からおよそ三百五十年前に、江戸幕府並びに諸大名の御用達として広く石材木材商を営んでいた吉田勘兵衛良信という商人が、幕府から許可を得て入海を埋立てて新田を築きました。
当初は釣鐘新田(野毛新田)とも呼ばれていました。

この大工事は、明暦2年7月17日に鍬入れをしましたが、翌年の5月10日より13日に亘る集中豪雨の為に潮除堤が流されて失敗に終わります。
しかし、万治2年2月11日に再度試みて、寛文7年、11年余りの歳月と8038両の巨費により、難工事を完成させ、市内最古で最大規模(およそ35万坪)を誇る新田開発を成し遂げることが出来たのです。

日枝神社の創建

勘兵衛は、寛文5年新田の要処である大岡川と中村川の分岐点に大堰と呼ばれた最も重要な取水口があった釣鐘の頂点に宮地を定め、完成後の寛文13年(1673)9月、新田の鎮守として、新田住民の安寧幸福や五穀豊穣を祈り、江戸の山王社(今の旧官幣大社日枝神社) より勧請し、に、山王社と併せて稲荷社を創建したのであります。
この御由緒により『横浜開拓の守護神』として、氏子をはじめ横浜の普く人々に御崇敬を戴いているのです。
創建当時、吉田勘兵衛により奉納された獅子狗二体現存する非常に貴重な当時のもので、現在は、日枝神社ご社殿の御扉の中、外陣に静かに置かれています。
尚、同時に奉納された白狐二体は、大正12年の関東大震災の際に焼失しています。

獅子狗


お三の人柱伝説

新田開発が難工事だったことから、氏子中はもとより横浜に広く語り伝わる「おさんの人柱伝説」が生まれ、「日枝神社」が「お三の宮」と呼ばれるに至る、ひとつの要因となっています。
諸説ありますが、そのひとつを紹介します。

吉田新田埋立の最初の工事(明暦2年)は、大雨による川の氾濫により失敗に終わりました。
そこで勘兵衛は、再度の埋立工事の成功を成就するために居住地の氏神赤坂の山王社(後の旧官幣大社日枝神社)に詣で、更に日頃念ずる日蓮宗総本山身延山久遠寺に参ったところ、訳あって夫の仇を討ちたいと諸国を流浪していた「お三」という女性にめぐりあいました。勘兵衛は、私の家に暫く身を寄せて時期を待つよう促し、家族の一員として迎えるに至りました。こうした機縁で、お三は勘兵衛家に仕える事となりました。

再度の埋立開始が決まった万治2年のある日、お三は勘兵衛に向かい、「今度の事業は容易ではないと思います。神仏を深く帰依なさる旦那様には、必ずやご加護があることと信じますが、古来人柱をたてるとその験があると聞き及んでいます。」と日頃のご恩に報いるのはこの時と、自ら人柱になりたいと申し出ました。勘兵衛はお三の殊勝な心がけを喜び感謝しながらも、人命の尊さを説いて押し止めたがお三は聞き入れなかったといいます。

同年9月13日、波打ち際(現神社裏)より白衣に身をつつんだお三は、合掌して天を仰ぎ大海に身を投じ、埋立の大事業完遂の人柱となったとのことです。

このように難航を続けた工事も、お三の人柱によって成し遂げることが出来たのであります。

おさんの伝説は、吉田勘兵衛が両社のご創建にあたり、大乗経を其々の下に一部埋納して地鎮祭を行ったことから、この大乗経埋納が民間訛伝しておさんの人柱となり、お三の霊をまつったという異説も未だに残っています。
ちなみに、明治・大正・昭和初期に地元伊勢佐木町の芝居小屋で多く演じられた「おさん」をモデルにした芝居によって多種多様な異説が生まれました。
これは、地元の住民はもとより、東京や外国人への客寄せのため、また、盛大なお三の宮の大祭になると、氏子住民がまつりに没頭し、客が減ることから、色々と脚色されたのではないかという言い伝えもございます。

現在の吉田新田

横浜の礎となった吉田新田は、現在、四十数ヶ町で構成されており、高速道路や地下鉄が走り、その大半を住宅や繁華街で占められ、かつてここが海であったことを連想させるものはありませんが、地図や上空写真を見ると、釣鐘形の埋立の跡がはっきりと見て取れます。

氏子町会(50音順)

曙町
伊勢佐木町
浦舟町
永楽町
扇町
翁町
寿町
山王町
白妙町
新川町
末吉町
高砂町
高根町
千歳町
長者町
万代町
日枝町
福富町
富士見町
二葉町
不老町
蓬莱町
真金町
松影町
万世町
南吉田町
三吉町
山田町
山吹町
弥生町
吉田町
吉野町
吉浜町
若葉町

祭礼氏子(順不同)

宮本地区

日枝東部町内会
日枝西部町和会
南吉田町町内会
山王町町内会
吉野町町会
新川町町内会
二葉町町内会
高砂町町内会

伊勢佐木地区

伊勢佐木町一・二丁目商和会
伊勢佐木町三丁目共栄会
伊勢佐木町四丁目共栄会
伊勢佐木町五丁目商栄会
伊勢佐木町六丁目町内会
伊勢佐木町七丁目町内会
吉田町町内会
福富町町内会
若葉町
末吉町一・二丁目町内会
末吉町三・四町内会
曙町一・二丁目町内会
曙・弥生三・四町内会
弥生町一・二丁目町内会
曙・弥生五丁目町内会
長者町五・六丁目町内会
長者町七・八・九丁目町内会

寿東部地区

浦舟町東部町内会
浦舟町西部町内会
髙根町東町内会
高根町西町内会
白妙町第一部町内会
白妙町二部町内会
真金町第一町内会
真金町二丁目町内会
万世町町内会
永楽町町内会

埋地々区

埋地七ヶ町連合町内会
山吹・富士見町・長者町三・四丁目連合町内会
山田町町内会
三吉・千歳町内会
モアレ山田町自治会
フロール山田町第一自治会
フロール山田町第二自治会
モアレ横浜富士見町自治会
長寿町内会